私は貴女を好いている これ以上無い程に
真摯な瞳 小さな手のひら けれど私はそれを拒み続ける
胸の奥底に仕舞い込んだはずの感情 出口を求め蠢き始めた
否 本より出口など欲してはいない
覚醒を迎えたそれはいつかきっとこの胸を食い破る
私がそれを望んでおらずとも 貴女がそれを望んでおらずとも





私は貴女に触れない
例えば厚みのある書類 気を抜けば雪崩のように滑り落ちてしまいそうなそれを手渡す時
例えば不注意で切った指 赤く落ちるそれを拭いこれ以上開かぬようにと手当てする時
例えば震えを抑える肩 拳を握り 唇を噛みしめ 声を殺して泣くその体を慰める時
私は細心の注意を払う 決して貴女に触れないように
だからこうして貴女が私の腕を引き 縋るように胸に飛び込んできた今この時も
私の両腕はだらしなくこの体から垂れ下がっているだけの肉塊と化している

「北森先生」

出来るだけ優しい声音で呼ぶ しかし実際にこの喉を通り過ぎていったそれはひどく強張っていた
次いで離してくださいと言ったと思う 狼狽えた頭は今何を口走ったのか把握していなかった
背に回る腕は力を緩める気配がない 色素の薄い髪からは柑橘系の匂いが漂う
整ったつむじを凝視しながら そこに唇を落とす己の幻想をみた
放課後の保健室で二人きり 日も暮れて久しく利用者が訪れることはなかった

「何かあったんですか」

養護教諭らしく何処までも穏やかに何処までも優しく 笑みを絶やさないことが第一条件
決して心の内を晒すまいと平静を装った あまり言葉を交わしたくないのが本心
なぜ突然彼女が私の胸に飛び込んできたのか これから彼女が放つ言葉は一体何なのか
私は既に知っていた 知っていたけれど聞きたくはなかった

「どうして避けるんですか」

くぐもった声で貴女は問うた
これまでの私の不自然な態度に不信感を募らせていたのだろう
そしてつい先ほど私は決定的なミスをおかした
手に持っていた学生記録を覗きこまれた際 咄嗟に身を引いてしまったのである
ここで返答に詰まってはいけないと 思いついた言葉をそのまま発する
何の話をしているのかと そのような類の言葉を
しかし焦りのあまり優しさを添え忘れた私の声は 迷いのない意志にいとも容易く遮られた

「分からないとは言わせません」

いつか問われる日が来るだろうことは予感していた
私はその時 無知を演じ続けようと決めていた

「避けてなどいませんよ」
「いいえ、避けているじゃないですか」

終わりのない押し問答 私はわざと溜め息をついた
その細い肩に手を当てて やんわりと押し返すくらいなら出来るはず
はずだがしかし出来なかった
今少しでも両の腕を動かせば たちまち誤作動を繰り起こし
一回り小さなこの体に縋りついてしまわないとも言い切れない

「少し、興奮しているようですね」

一緒に紅茶でも飲みませんかとそう言った 今度は優しさを忘れなかった
もうそろそろ離して欲しいと暗に告げている
こちらから行動できない以上 彼女が自ら離れるのを待つしかなかった
私は紅茶についての知識を喋り始める 鎮静効果 糖分接種 その他諸々
けれど舌の上を滑り落ちるだけの苦し紛れの逃げ口上は 欠片も貴女に届かない
とにかくこの状況から脱したいと必死に促す私を余所に 彼女は言った
胸に埋めていた顔を上げ 残酷なほど明瞭に

「先生、好きです」

嘘偽りなく凛とした眼差し 結んだ唇に確固たる覚悟を見た
静かなる情熱 咄嗟に拒絶の言葉など紡げるわけもなくただその面差しに魅入った
貴女に惹かれていると自覚してからずっと 貴女とは距離を置いていた
生徒を導き進む姿を見つめないように 見守る優しさに近寄らないように 白く柔らかな肌に触れないように
だから私は気付かなかった
貴女がこれ程までに綺麗な女性だったということに
貴女から目を逸らせば逸らすほど 強く惹かれていたことに

「私は、貴女の想いには応えられません」

押し殺した声で言う 離れてくださいと
そして顔を背ける もうこれ以上見つめることは出来なかった これ以上は感情が零れる
浅はかな言葉を吐き出してしまう前に私は口を噤んだ
奥歯が軋む音がする

「先生が私を好きになれないのなら、それでも良いんです」

私の拒絶すらも包括する静かな声音
背に回された腕からゆるゆると力が抜けていく 解かれる甘やかな拘束
自らそれを求めたにも関わらず 惜しいと思わずにはいられなかった

「私はこうしてお会いして、お話できるだけで幸せです」

輝きを増した瞳に映る切望

「ただ、お話できるだけで」

それは静かに頬を滑る 震える唇から滴り落ちた
私はただただ美しいとしか思えない
最早彼女が何を言っているのかすら 分からなかった

「避けないでください」

目を伏せるとまたひらはらと大粒の涙が零れる 短い前髪が揺れた
けれど私はその濡れた長い睫毛を見ている 眉根を寄せ悲しみに染まる貴女を見ていた

「お願いします」

消え入りそうな声でそう告げて 彼女は私の胸に額を添えた
微かな重みと共にその震えを感じる 焦がれ続けた貴女が確かに今ここに居る
私の拒絶に心を砕き 私を引き留め 私を好きだと言う
これといって 何を思ったわけでもない
気付けばあれほど硬直していた左腕は荒々しく貴女の細い肩を掴んで引き剥がし
次いで右腕は丸い後頭部に回っていた
彼女の驚いた顔を間近で見た後 すぐに目を閉じた
柔らかな感触 押し当てた唇は濡れて塩辛い味がする
繰り返される合間 眼鏡を外した覚えはあるがどこかに置いた記憶はない
遠くでかしゃんと声高な悲鳴を聞いた気がした
互いに乱れる呼吸
更に深く求めても彼女は一切抵抗しなかった しなかったけれどまた頬を濡らした
そっと彼女の顔色を窺いその頬を拭うと 彼女もまた 私のまなじりを優しく拭った
泣いていたのは彼女ではなかった

「私は貴女を好いています」

もう隠しようがなかった 胸に込み上げる想いをそのまま口にする
彼女は目を見張ったがやがて安堵に似た笑みを浮かべた

「はい、私も上條先生のことが好きです」

幸せそうに笑う この純粋な笑顔が好きだった
それが今私だけに向けられている 想い焦がれた状況
しかし実際にその場に立たされて初めて分かった
焦がれたはずの貴女の笑顔がこんなにも苦しい
こんなにも私の中で貴女の存在が大きくなっていたなんて

「いいえ、違う。違うんです」

決して触れられない 決して私のものにならないと知れば知るほど想いは加速する
その芳香 柔らかな肌を知り 惑った頭は彼女を長椅子の上に横たえた
軋む椅子 床の上でぱきりと何かが割れる音がした
胸が痛い 貴女が愛しい もう何も要らない
過去も未来も何もかもを放り投げ 今この腕に抱く貴女に縋りたい
ただ 貴女を

「私は、貴女が好きなんです」

その頬に手を伸ばし さらりと撫でると 額同士を合わせた
熱い吐息が混ざり合う

「・・・好きなんですよ」

きっと私は貴女を駄目にする 縋って求めて押し潰す
誰よりも優しい貴女は私を闇間から救い上げようとするだろう
風に煽られ 大波に浚われながらも 決してその手を離さない
頑なに信じているのだ いつか必ず道は開けると
その力でもって全てを変えてきた 問題児たちをまとめ上げ 生徒会を味方につけた
教師も感化されつつあり そして私も

「貴女が相手だと、私はいつも喋り過ぎてしまうようです」

けれど私は知っている 絶え間ない笑顔のその裏でどれほど心を砕いているか
優しい貴女は人の痛みも自分のものにする 自分のものとして考える
共に悩んで 行動して 導いていく それをずっと目の当たりにしてきた
しかし私は彼らとは違うのだ 私の闇は深い
ひと度手を伸ばそうものなら貴女の全てを飲み込んでしまうだろう
何故ならば私自身が影なのだから 一度染まってしまったからには逃れる術などない
貴女もそんな私のために心を砕くことはない これは私一人で背負うべき問題だから
深く息を吸い込み 眦を決した
先ほどの余韻など微塵も残さず立ち上がり 迷いのない足取りで出口に向かう

「上條先生」

背後で名を呼ばれたが返事はしなかった
ぱちりと部屋の明かりを消す 彼女から惑いの声が漏れた
カーテンが引かれた部屋は外界からの光を通さない
私は胸ポケットに常備してある医療用のペンライトを取り出し 明かりを点けた
ゆっくりと揺らしながら 彼女の元へと戻る
今起こったことは全て夢だったのだとそう言って聞かせた

「先生・・・上條先生、待って」

ぼんやりとした声音で貴女は私を引き留める しかし聞き届けることは出来ない

「貴女が今見たこと、聞いたことは全て夢の中の出来事です」

散らばる貴女の髪をゆっくりと撫でつけ 眠りを促した
私のために流した涙も拭ってやる 全てを元通りにするのだ
そう 全てを

「貴女は私を、上條元親を好いてはいない。ただの職場の先輩です。特別な感情は抱いていない」

緩慢な仕草で彼女が頷くのを確認してから 眠らせた
これでもう二度と 貴女が私を見ることはないだろう
何故ならもう二度と 私は違えたりしないから
貴女を見つめない 貴女に近寄らない 貴女には決して触れないと誓う 今ここで
仄暗い部屋の中 眠る貴女の目尻に光るものを見つけた
先程拭ったばかりだというのに どうして
泣きたいのは私の方だと苦笑する そんな貴女だからこそ 私は
そっと彼女の傍らに跪き 前髪を寄せると 静かにその額に口づけをした
貴女の記憶を消すのはこれで最後 そう何度も使っていい術ではない
だからこれが最後の口づけ その仕草は切々たる祈りに似ている
どうか貴女の笑顔が曇りませんように どうか貴女に抱えきれないほどの幸せを
最後まで拒めなかった私を許して欲しい
貴女を厭っている そのたった一言さえいうことが出来なかった
それ程までに 貴女を好いている

「ありがとう」

そろそろ加賀美先生が見回りにくる時間だ
その前にこの部屋から出さなければならない そして私はもう帰ったと伝えてもらわなくては
以前もこんなことがあったと思い返しながら 朦朧とする彼女を起こし出口へと促した
開かれる扉 暗い室内に光がなだれ込んでくる
貴女越しに見る光 まるで貴女そのものが光っているように見えた
ここが貴女と私の境界線
貴女は光の世界へと帰り 私はこの仄暗い部屋から抜け出すことは出来ない
その後ろ姿を見つめながら ゆっくりと扉を閉める
一人の小部屋 断絶の音がやけに大きく響いた






全てを終えたあと床に放られている眼鏡を見つけた 割れて変形している
これと同じ眼鏡を明日までに用意しなければならない 今日中に全てを元通りにしなければ
もしかしたら明日またここで顔を合わせるかも知れない
廊下ですれ違うかも知れないし 突然理事長室にやってくることも考えられる
貴女の記憶は全て元通り 次は私の番だ
私も今日のことは全て忘れた振りをする また笑顔で貴女に会うために
この狂おしいまでの激情はまた胸の奥底に仕舞い込む
幾重にも鍵をかけ もう二度と開かぬように

以前もこうして彼女の記憶を消したことがある
背負込んだ荷が重すぎて 私が思わず弱音を吐いてしまったからだ
あの時は貴女に出会うのがもっと早ければと思ったけれど 今ではこれで良かったのだと思う
そうでなければこうして貴女と出会うこともなかった
闇に染まり影となった私だからこそ 光のような貴女を見つけ出すことが出来た
今でもはっきり覚えている あの採用試験の日ことを
あの時から私は貴女に惹かれていたのだろう
だから選んだ
私が私であったから 貴女が貴女であったから
目が覚めたら何もかもが元通り
貴女は日の当たる場所に帰り 私もまた闇へと帰る
決して相容れることはできない 出来ないからこそこんなにも惹かれるのだろう
だからこそ こんなにも貴女が愛しい

一度も愛したことがないよりは 愛して失ったほうが どれほどましなことか
もし私が何の柵もないただ一人の男だったなら 私はきっと







「 Tis better to have loved and lost than never to have loved at all. 」
素敵な企画に参加できて嬉しいです。有難うございました。  ガゼル

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